彼女の母親は、もう何ヵ月も目を覚まさないままだったそうだ。
小さな病室を満たしていたのは、の規則的なと、のという動作音と、窓を叩く雨音。それと、長く人の病室に特有の、世間と空気。
彼女はベッドサイドのに座ったまま、母親の手をきゅっと握る。母親のマスクが規則的に白くさまを、ずっとままのを見つめる。不安に押しつぶされながら、彼女はただただっている。お母さんが目を覚ましますように。ピンチの時のヒーローみたいな風が力強く吹きつけて、とか心配とかとかて重いものを吹き飛ばし、家族三人で、もう一度青空の下を笑いながら歩けますように。
、と彼女の髪が。、と耳元で水音が聞こえた。
彼女は。はずの窓のカーテンがかすかに揺れている。窓ガラスの空に、彼女の目は。がいる。雨は相変わらずだけど、雲に小さなが出来ていて、そこから伸びた光が地上の一点を照らしている。彼女は。視界のまで建物。そのうちの一つのビルのだけが、スポットライトをみたいに光っている。
誰かに呼ばれたかのように、彼女は病室から。
そこはだった。周囲の建物はのに、そのだけは時間にかのように茶色く。「」とか「」とか「」とか「」とか、錆びついて看板がビルの周囲にいくつも貼りついていた。ビニール傘越しに見上げると、は確かにここの屋上を照らしている。ビルの脇を覗くと小さな駐車場になっていて、ぼろぼろに錆びついた非常階段が屋上まで伸びていた。
──まるで光のみたい。
階段を彼女は、、の景色に。
手すりにまれたその屋上は二十五メートルプールのちょうど半分くらいの広さで、床のはぼろぼろに、緑の雑草にいた。その一番奥に、にようにして小さなが立っていた。からの光は、その鳥居を照らしている。鳥居のが、陽射しのスポットライトの中でと一緒にいていた。雨に世界の中で、そこだけがだった。
ゆっくりと、彼女は鳥居に向かって屋上を歩いた。雨を浴びた夏の雑草を踏む、という音とがある。のには、いくつものビルが白く立っている。どこかに巣があるのか、小鳥のがあたりに満ちている。そこに、まるで別の世界から聞こえてくるようなの遠い音が混じっている。
傘をに置いた。雨の冷たさが彼女のを。鳥居の奥には小さな石のがあり、その周囲にはの小さな花が茂っていた。そこにように、誰が置いたのかのが二体あった。を刺したとの馬だ。無意識のうちに彼女は手を合わせた。そして強く願う。雨が止みますように。ゆっくりと、願いながら。お母さんが目を覚まして、青空の下を一緒に歩けますように。
鳥居を抜けると、空気が変わった。
雨の音が、。
目をと──そこは青空の真ん中だった。
彼女は強い風に吹かれながら、空のずっと高い場所に浮かんでいた。いや、風を切り裂いて落ちていた。聞いたこともないような低くて深い風の音が周囲に渦巻いていた。息は吐くたびに白く凍り、濃紺の中でキラキラと瞬いた。それなのに、恐怖はなかった。目覚めたまま夢を見ているような奇妙な感覚だった。
足元を見下ろすと、巨大なカリフラワーのような積乱雲がいくつも浮かんでいた。一つひとつがきっと何キロメートルもの大きさの、それは壮麗な空の森のようだった。
ふと、雲の色が変化していることに彼女は気づいた。雲の頂上、大気の境目で平らになっている平野のような場所に、ぽつりぽつりと緑が生まれ始めている。彼女は目をみはる。
それは、まるで草原だった。地上からは決して見えない雲の頭頂に、さざめく緑が生まれては消えているのだ。そしてその周囲に、気づけば生き物のような微細ななにかが群がっていた。
「……魚?」
幾何学的な渦を描いてゆったりとうねるその群体は、まるで魚の群れのように見えた。彼女は落下しながら、じっとそれを見つめる。雲の上の平原を、無数の魚たちが泳いでいる──。
突然、指先になにかが触れた。驚いて手を見る。やはり魚だ。透明な体を持つ小さな魚たちが、重さのある風のように指や髪をすり抜けている。長いひれをなびかせているものや、くらげのように丸いものや、メダカのように細かなもの。様々な姿形の魚たちは、太陽の光を透かしてプリズムみたいに輝いている。気づけば彼女は空の魚に囲まれている。
空の青と、雲の白と、さざめく緑と、七色に輝く魚たち。彼女がいるのは、聞いたことも想像したこともない不思議で美しい空の世界だった。やがて彼女の足元を覆っていた雨雲がほどけるように消えていき、眼下にはどこまでも広がる東京の街並みが姿を現した。ビルの一つひとつ、車の一台いちだい、窓ガラスの一枚いちまいが、太陽を浴びて誇らしげに光っている。雨に洗われて生まれ変わったようなその街に、彼女は風に乗ってゆっくりと落ちていく。しだいに、不思議な一体感が全身に満ちてくる。自分がこの世界の一部であることが、ことば以前の感覚として彼女にはただ分かる。自分は風であり水であり、青であり白であり、心であり願いである。奇妙な幸せと切なさが全身に広がっていく。そしてゆっくりと、深く布団に沈みこむように意識が消えていく──。